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現職コーチ、突然の別れ [波瀾万丈伝]
2010年1月17日(日曜日)、大相撲中継が終わり、インターネットを開いたら、小林繁北海道日本ハムファイターズ投手コーチが心不全で、57歳という若さで急逝したという記事が目に飛び込んだ。本当に信じられない。
小林氏は日本の歴史に刻まれた「空白の1日事件」で、渦中の人物とされてしまったことで知られている。私が「空白の1日事件」を知ったのは、昭和63年(1988年)に発売された江川卓著、新潮社刊行の『たかが江川、されど江川』だった。のちに当時、フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんが「空白の1日事件」を取材していたことを知る。それは2007年に放送された『SPORTSうるぐす』(現・『SUPERうるぐす』)で、偶然見つけた。当時、逸見さんはスポーツ担当のアナウンサーだった。
江川氏は巨人に入りたいことを公にできなかった。昭和48年(1973年)に阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)、昭和52年(1977年)にクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)で、いずれもドラフト1位指名されているが、入団を拒否。法政大学卒業後はアメリカへ渡り、ドラフト会議直前に緊急帰国(当初はドラフト会議後の予定だったらしい)。クラウンライターライオンズの交渉期限が切れた翌日、巨人は江川投手と契約。翌日はドラフト会議だったため、巨人の“着眼点”が大きな波乱と混乱を招いた。
当時の野球規則上、契約をすることに問題はなかったが、コミッショナーは、江川投手の契約を無効と決め、不服とした巨人はドラフト会議に参加しなかった(選手はすべてドラフト外で獲得)。これにより、野球規則も改正を余儀なくされた。
江川投手は3度目のドラフト1位指名を受け、抽選の末、阪神タイガースが交渉権を獲得。そして、阪神タイガースに入団した上で、江川投手は金銭トレードで、巨人へ移籍するはずだった。しかし、昭和54年(1979年)のキャンプイン直前、江川投手と小林投手の交換トレードが成立。江川投手は世間から悪者とされてしまった(この騒動で、江川投手の1軍登録は、6月1日以降というペナルティーが言い渡される)。また、小林投手は“悲劇のエース”というふうに見られた。
小林投手は「仕事で判断していただきたい」と言って、気丈にふるまい、この年は22勝9敗で最多勝と2度目の沢村賞を獲得。江川投手は6月デビューも9勝10敗と健闘していた。実は江川投手のひとケタ白星はルーキーだった昭和54年(1979年)だけで、翌年以降、現役を引退するまで8年連続2ケタ勝利をあげている。
昭和55年(1980年)8月に小林投手との直接対決が実現。江川投手は小林投手からヒットを打ち、完投勝利をあげた。著書やCMの収録でも“絶対に勝たなければならない試合”と気合を入れていた。
昭和58年(1983年)、小林投手は31歳の若さで引退。その4年後、江川投手も32歳の若さで現役を退いた(ともに、現役最後の年は13勝をあげている)。2人はプロ野球解説者という道を歩むが、現在も日本テレビのエース解説者である江川氏は、TBSの誘いを断っている。それは当時、小林氏はTBSのプロ野球解説者だったからである。江川氏はプロ野球中継での同席を拒んだのである。
平成6年(1994年)、小林氏は日本テレビに活動の場を移し、『どんまい!! SPORTS and WIDE』の月・金曜日担当に就任するものの、『激空間プロ野球』(プロ野球中継)の解説をすることはなく、江川氏と顔を合わせることもなかった。
2007年、黄桜という酒造メーカーのCMで、2人は顔を合わせることになる。黄桜からのオファーに2人とも出演を決め、打ち合わせはなく、“心ゆくまで話していただく”という、ドキュメンタリーCMであった。
江川氏が小林氏の登場を待つところから、撮影が始まり、そして登場。小林氏はリラックスした表情の笑顔で、緊張で顔が引きつっている江川氏と握手をする。そこで1時間ほど、2人は会話をするわけで、江川氏は初めて謝罪をした。28年間、謝りたくてもできなかったことを口にしたのだ。小林氏は「風化しているよ」といって、すでに許しているかのようだった。2人とも、つらい日々を過ごしていたことに変わりなかった。
このCMによって、「空白の1日事件」は完結したことだろう。のちに『SPORTSうるぐす』で、江川氏は“50代の今にやってよかった”ことを話している。もし、あの収録がなかったら、一生、責任を背負い続けていたままだったかもしれない。いや、あの収録で謝罪しても、変わらないのかもしれない。
2009年、小林氏は北海道日本ハムファイターズの2軍投手コーチに就任。今シーズンは1軍に昇格して、腕を奮うはずだった。前日まで、特に変わりない様子で、元気だったという。それが2010年1月17日(日曜日)、福井市内の自宅で突然倒れ、病院に搬送されたものの、心不全でこの世を去った。まだ57歳の若さだった。どうして、急にあの世へ行かなければならないのだろう?
今、我々が生きている「この世」というのは、本当に恐ろしい世界であることを改めて、思い知らされた思いだ。
巨人軍関係者では、2010年1月15日(金曜日)に武宮敏明元寮長(88歳)が急性すい炎、1月17日(日曜日)に桑田真澄元投手の御尊父(67歳)が火災事故で亡くなっており、訃報が続いて残念である。
天に召された方々の御冥福を心より、お祈りいたします。
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小林氏は日本の歴史に刻まれた「空白の1日事件」で、渦中の人物とされてしまったことで知られている。私が「空白の1日事件」を知ったのは、昭和63年(1988年)に発売された江川卓著、新潮社刊行の『たかが江川、されど江川』だった。のちに当時、フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんが「空白の1日事件」を取材していたことを知る。それは2007年に放送された『SPORTSうるぐす』(現・『SUPERうるぐす』)で、偶然見つけた。当時、逸見さんはスポーツ担当のアナウンサーだった。
江川氏は巨人に入りたいことを公にできなかった。昭和48年(1973年)に阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)、昭和52年(1977年)にクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)で、いずれもドラフト1位指名されているが、入団を拒否。法政大学卒業後はアメリカへ渡り、ドラフト会議直前に緊急帰国(当初はドラフト会議後の予定だったらしい)。クラウンライターライオンズの交渉期限が切れた翌日、巨人は江川投手と契約。翌日はドラフト会議だったため、巨人の“着眼点”が大きな波乱と混乱を招いた。
当時の野球規則上、契約をすることに問題はなかったが、コミッショナーは、江川投手の契約を無効と決め、不服とした巨人はドラフト会議に参加しなかった(選手はすべてドラフト外で獲得)。これにより、野球規則も改正を余儀なくされた。
江川投手は3度目のドラフト1位指名を受け、抽選の末、阪神タイガースが交渉権を獲得。そして、阪神タイガースに入団した上で、江川投手は金銭トレードで、巨人へ移籍するはずだった。しかし、昭和54年(1979年)のキャンプイン直前、江川投手と小林投手の交換トレードが成立。江川投手は世間から悪者とされてしまった(この騒動で、江川投手の1軍登録は、6月1日以降というペナルティーが言い渡される)。また、小林投手は“悲劇のエース”というふうに見られた。
小林投手は「仕事で判断していただきたい」と言って、気丈にふるまい、この年は22勝9敗で最多勝と2度目の沢村賞を獲得。江川投手は6月デビューも9勝10敗と健闘していた。実は江川投手のひとケタ白星はルーキーだった昭和54年(1979年)だけで、翌年以降、現役を引退するまで8年連続2ケタ勝利をあげている。
昭和55年(1980年)8月に小林投手との直接対決が実現。江川投手は小林投手からヒットを打ち、完投勝利をあげた。著書やCMの収録でも“絶対に勝たなければならない試合”と気合を入れていた。
昭和58年(1983年)、小林投手は31歳の若さで引退。その4年後、江川投手も32歳の若さで現役を退いた(ともに、現役最後の年は13勝をあげている)。2人はプロ野球解説者という道を歩むが、現在も日本テレビのエース解説者である江川氏は、TBSの誘いを断っている。それは当時、小林氏はTBSのプロ野球解説者だったからである。江川氏はプロ野球中継での同席を拒んだのである。
平成6年(1994年)、小林氏は日本テレビに活動の場を移し、『どんまい!! SPORTS and WIDE』の月・金曜日担当に就任するものの、『激空間プロ野球』(プロ野球中継)の解説をすることはなく、江川氏と顔を合わせることもなかった。
2007年、黄桜という酒造メーカーのCMで、2人は顔を合わせることになる。黄桜からのオファーに2人とも出演を決め、打ち合わせはなく、“心ゆくまで話していただく”という、ドキュメンタリーCMであった。
江川氏が小林氏の登場を待つところから、撮影が始まり、そして登場。小林氏はリラックスした表情の笑顔で、緊張で顔が引きつっている江川氏と握手をする。そこで1時間ほど、2人は会話をするわけで、江川氏は初めて謝罪をした。28年間、謝りたくてもできなかったことを口にしたのだ。小林氏は「風化しているよ」といって、すでに許しているかのようだった。2人とも、つらい日々を過ごしていたことに変わりなかった。
このCMによって、「空白の1日事件」は完結したことだろう。のちに『SPORTSうるぐす』で、江川氏は“50代の今にやってよかった”ことを話している。もし、あの収録がなかったら、一生、責任を背負い続けていたままだったかもしれない。いや、あの収録で謝罪しても、変わらないのかもしれない。
2009年、小林氏は北海道日本ハムファイターズの2軍投手コーチに就任。今シーズンは1軍に昇格して、腕を奮うはずだった。前日まで、特に変わりない様子で、元気だったという。それが2010年1月17日(日曜日)、福井市内の自宅で突然倒れ、病院に搬送されたものの、心不全でこの世を去った。まだ57歳の若さだった。どうして、急にあの世へ行かなければならないのだろう?
今、我々が生きている「この世」というのは、本当に恐ろしい世界であることを改めて、思い知らされた思いだ。
巨人軍関係者では、2010年1月15日(金曜日)に武宮敏明元寮長(88歳)が急性すい炎、1月17日(日曜日)に桑田真澄元投手の御尊父(67歳)が火災事故で亡くなっており、訃報が続いて残念である。
天に召された方々の御冥福を心より、お祈りいたします。
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