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2009年の汽車旅4-12 [汽車旅2009]

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・2009年の汽車旅1~11
http://railway583.blog.so-net.ne.jp/2011-04-24

◆地元の英雄、十河信二  

伊予西条(Y31)で下車し、駅すぐのところにある『鉄道歴史パーク in SAIJO』へ。敷地内には「十河信二記念館」、「四国鉄道文化館」、「西条市観光交流センター」がそれぞれある。いずれも開館時間は8時00分から19時00分までで、毎週水曜日休館である。  

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まずは「十河信二記念館」へ。「四国鉄道文化館」ともども予讃線沿いにあり、十河信二に敬意を表しているかのようだ。両館のあいだには十河信二像がある。  

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「十河信二記念館」は無料で、中に入ると木材のやすらぎに包まれ、十河の胸像、同氏をたたえる伊藤宏太郎西条市長のメッセージ、波瀾万丈の年表がある。  

十河信二は明治17年4月14日(月曜日)に生まれた。明治42年(1909年)、鉄道員に就職し、鉄道省経理局長まで上り詰めたものの、収賄罪で起訴されてしまう。このため、十河は大正15年(1926年)1月に退職したが、3年後の昭和4年(1929年)4月、無実が証明され、汚名を晴らした。

昭和5年(1930年)7月、満州鉄道の理事(その後、同社の経済調査会委員長を兼任)に就任。その後、興中公司社長、帝国鉄道協会理事(1944年11月、「帝国交通協会」に改称)、学生義勇軍会長を歴任し、昭和20年(1945年)7月、第2代西条市長に就任した。

しかし、わずか9か月で西条市長を辞任。再び交通の世界に戻り、鉄道弘済会会長、日本経済復興協会会長、日本交通協会理事を歴任し、昭和30年(1955年)5月20日(火曜日)、第4代国鉄総裁に就任した。当時71歳という高齢で、国鉄総裁初の外部登用となった。ちなみに、国鉄総裁の任期は1期につき4年である。

十河は島秀雄技師長とともに、東海道新幹線の構想を打ち出し、昭和34年(1959年)4月20日(月曜日)、新丹那トンネル東口で起工式が行なわれた。

国鉄の大事業かつ運命をかけた東海道新幹線は、建設費が莫大なことから、昭和36年(1961年)5月に世界銀行から8000万ドルを借り入れた。しかし、建設費用が大幅に不足することが表面化。これを受けて、政府は昭和38年(1963年)3月、十河の3期目はないことを明言した。

同年5月19日(日曜日)、十河は2期8年で国鉄総裁を勇退し、5代目国鉄総裁の石田禮助(Reisuke Ishida.当時77歳)にあとを託した。1か月後、十河は日本交通協会会長に就任する。

昭和39年(1964年)10月1日(木曜日)、東海道新幹線が開業。東京で行なわれた“夢の超特急”〈ひかり1号〉新大阪行きの出発式で、テープカットは石田の手により行なわれたが、そこに十河の姿はなかった。しかし、10時から国鉄本社で行なわれた開業式では、十河は昭和天皇皇后両陛下とともに招かれた。十河は東海道新幹線の開業に大きく貢献した1人として、高く評価されたことを表すものだった。

その後、十河の功績を賞賛するかの如く、昭和38年(1963年)11月に愛媛県民賞、昭和39年(1964年)11月に勲1等瑞宝章、昭和44年(1969年)9月に西条市名誉市民第1号、昭和48年(1973年)に東京18・19番線の新横浜寄りにレリーフを設置される栄誉を受けた。

昭和56年(1981年)10月3日(土曜日)12時07分、東京都の鉄道中央病院で、97歳という天寿を全うした。

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さて、館内は十河の功績、栄誉を余すところなく紹介。2階は再現した書斎、名言集、自筆の書、賞状、絵葉書などを展示。映像ブースでは在りし日の十河を映している。また、本棚もあり、鉄道誌、鉄道書を収めている。ちなみに階段には車椅子対応のリフトを装備、2階にも車椅子を用意しており、弱者に優しい環境を整えている。これは十河の晩年、右足骨折により、車椅子の生活を余儀なくされたことがあるのだろう。十河に対する地元の熱い思いを感じさせる。


◆四国鉄道文化館へ

 
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「十河信二記念館」で「四国鉄道文化館」の入場券(高校生以上300円、小中学生100円)を購入。両館の通路の一部は枕木、両サイドにはバラストをそれぞれ敷設しており、鉄道気分を高めている。予讃線沿いには実際に使われた腕木式信号機、標準軌と狭軌、公園でよく見かけるベンチがある。

「四国鉄道文化館」は土足厳禁。こちらも木の安らぎに包まれているが、先のほどの「十河信二記念館」とは違い、開放的な空間が印象に残る。

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館内には実際に使われた急行〈いよ〉のヘッドマークや、各駅停車のサボなどの鉄道グッズなどを展示。目玉は永住する0系1号車21-141、DF50形1号機だろう。

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0系はいまさら紹介するまでもないが、初代新幹線電車として、歴史に名を残した。「十河信二記念館」の隣に展示するのにふさわしい車両といえる。

展示している0系1号車21-141は、昭和51年(1976年)に日立製作所で新製されたもので、2000年10月まで24年にわたり活躍。約1020万キロ(地球約255周分)走行した。

JR西日本で廃車後、JR四国に渡り、多度津工場で保存及び展示。残念ながら、26メートル車体は14メートル切り落とされ、12メートルで展示していたが、「四国鉄道文化館」に伴い、DF50形1号機と共に“転属”した。ちなみに、この編成の晩年は4両に短縮されており、東京方先頭車の4号車22-141は、イギリスのヨークにある国立鉄道博物館に展示。0系で唯一、“海外生活”をしている車両として名高い存在になっているだろう。

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DF50形1号機は、昭和32年(1957年)に登場した電気式ディーゼル機関車で、ディーゼルエンジンはドイツの技術を取り入れ、三菱重工がライセンス生産をしたものである。ディーゼルエンジンで発電機を動かし、モーターを回転させて走る車両だったが、総出力は600キロワットという非力に加え、製造コストがかさむ問題があり、わずか6年で増備を打ち切られた。その後、電気式ディーゼル機関車は、JR貨物が平成4年(1992年)にDF200形を世に送り出すまで、新製されなかった。

DF50形1号機は、昭和58年(1983年)9月25日(日曜日)に運行を終え、約260万キロメートル(地球約67周分に相当)を走行。一線から退いたあとは準鉄道記念物の指定を受け、多度津工場で保存されていた。その後は0系1号車21-141で記述したとおりである。

DF50形1号機は、現在も走行することが可能で、館内にはバラストと枕木を敷設しており、“外出”できる構造になっている。また、DF50形1号機を展示している線路では、土休に限り、軌道自転車の体験サービスが行なわれている(イベント開催時や天候不順時を除く)。

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0系1号車21-141の車内に入る。車内は晩年の姿をとどめており、乗務員室寄りに液晶モニター、その反対側に家庭用空調機を設置した。この日は冷房が効いている。「四国鉄道文化館」は基本的に空調がなく、夏は扇風機やCOOL SHOTが応援稼動しているが、館内は自然の風を取り入れているため、木のぬくもりと共に心地いい。

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座席は簡易リクライニングシートで、シートモケットはグレー調に変わっている。ひじかけのレバーを操作すると、背もたれが倒れ、座面が前へ動くものである。背面にはテーブルが備わっており、弁当などを置くことができる。

久しぶりに0系の簡易リクライニングシートに坐る。平成5年(1993年)秋以来、16年ぶりに味わうが、坐り心地は普通車のリクライニングシートと大差がないように思う。新幹線のリクライニングシートは、深々と最大限に倒していることはないからだろうか。ただ、シートピッチが異なるのは明らかで、時代というものを感じるが、在来線の車両ならば、0系なみのシートピッチで充分だろう。新幹線電車は3人掛けの座席が存在するため、それ以上の余裕が必要になってくる。  

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乗務員室は、運転席のシートモケットも客室に合わせている。運転台には速度計が2つもあり、いずれも視界に入る。運転台は機器類が多く、見落としを防ぐ役割があるのだろう。  

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そのあと、DF50形1号機の運転席に入ったが、床がミシミシしており、老いを感じる。いずれの車両も運転席が高い位置にあるため、4トントラックを運転するような感覚を受ける。  

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螺旋階段を上り、展望台へ。トレインビュースポットのほか、伊予西条駅構内の給水塔、カーバイド庫、石鎚山を眺めることができる。

カーバイド庫は“照明工場”で、カーバイドという物質に水を加えると、アチレンガスが発生し、それを利用して夜間の作業照明に使っていたという。今は電気でまかなっているため、カーバイド庫を使う必要はない。

給水塔は蒸気機関車が水を補給するために設けた場である。かつてはここで蒸気機関車を付け替える作業が行なわれており、転車台も用意されていたが、残念ながら、すでに撤去されている。また、現在も給水塔は、駅構内で使う水をポンプでくみ上げているという。いずれも鉄道遺産的な建物として、永遠にそびえ立つ存在になるだろう。


◆徹底的なJR四国

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伊予西条(Y31)に戻り、2・3番のりばへ。ホームには意外と待ち人が多く、ほどなくして各駅停車観音寺行きワンマン列車(7022)が入線。“この数だと、ロングシートやむなし”と覚悟していたが、奇跡的にボックスシートをGETすることができた。その理由は側扉で、待ち人たちは“全部開く”と思っていたからである。しかし、開いたのは後部のみ。JR四国のワンマン列車は、有人駅でも“乗車後部扉、降車前部扉”に徹底している。メリットは“わかりやすい”、デメリットは“融通が利かない”といったところ。

2番のりばに7000系単行の各駅停車松山行きが到着した。この電車は車掌が乗務しており、ここで女性から男性に交代。この日(夏季)は半自動ドア扱いだが、中央の側扉が開いていなかったため、試しに車体側面にあるボタンを押したところ、開いた。


各駅停車観音寺行きワンマン列車編成表
乗車区間号車車両番号禁煙備考
伊予西条→観音寺なし7022なし

7000系を投入した当初、半自動ドアは手で開閉していたが、重くて使いづらい難点があった。高齢者が多い四国では、半自動ドアの開け閉め自体が重労働になってしまう。そういう苦情や要望が多かったのか、21世紀に入っていつ頃なのかはわからないが、ボタンを取りつける改造が行なわれ、操作性を大幅に改善した。

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各駅停車観音寺行きワンマン列車は12時47分に発車。多喜浜(Y28)でエル特急〈しおかぜ9号〉宇和島行き“アンパンマン列車”と行き違う。その後は山間部をひるまず突き進む。

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町となり、伊予土居(Y26)で各駅停車伊予西条行きワンマン列車と行き違うが、なんと2両。JR四国のワンマン列車は基本1両のため、“あれぇー?”と疑問だったが、後ろ1両は回送車だった。単線主体の予讃線なので、効率を重視した運用である。

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赤星(Y25)を発車すると、燧灘(Hiuchinada)オーシャンショー。ちょっとしか眺められないが、四国らしさを感じる車窓である。

箕浦(Y21)でエル特急〈しおかぜ11号〉松山行きと行き違い、終点観音寺(Y19)が近づいてきた。

「JR四国を御利用いただきまして、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」  

観光客向けに聞こえる自動放送が流れた。JR四国は、JR旅客鉄道の中では経営基盤が小さく、ローカル線が主流なだけに、“いつも乗ってほしい”という思いが強いことを表している。  

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13時59分、終点観音寺(Y19)2番のりばに到着。隣の4番のりばに回り、快速〈サンポート南風リレー号〉高松行き(クモハ121-8)に乗り換え。国鉄末期に投入した121系で、JR東日本207系に似た顔立ちが特徴だ。

さて、快速〈サンポート南風リレー号〉高松行きの方向幕は、「高松」のみ。ヘッドマークも掲出していないのが気になるが、ボックスシートをGET。個人的には、6000系の転換クロスシートに坐りたかったが……  

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エル特急〈しおかぜ18号〉岡山行きを先に通したあと、14時18分に発車。本山(Y18)では121系の快速〈サンポート南風リレー号〉観音寺行きと行き違うが、進行方向左側のホームに停車しているため、快速〈サンポート南風リレー号〉高松行きは、右側に針路をとる。先ほどまで乗った7000系は俊敏な動きだったが、121系は性能が若干劣るため、遅い。
 

快速〈サンポート南風リレー号〉高松行き編成表
乗車区間号車車両番号禁煙備考
高松なしクモハ121-8なし
観音寺なしク ハ120-8なし

14時30分、高瀬(Y16)2番のりばに到着。この日も雨が降ってしまった。梅雨明けしているはずなのに……  

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詫間(Y14)を発車して、しばらくすると雨が強くなる。進行方向左側には、三野津湾・備後灘オーシャンショー。その距離は短いが、雄大な大海原沿いを走る車窓は、予讃線の見どころだろう。  

いつしか雨はやんだ。というより、降った痕跡すらない。やがて土讃線に合流すると、エル特急〈南風13号〉宿毛行きとすれ違う。“多度津を目前に接続しないのか?”と首を傾げるが、エル特急〈南風13号〉宿毛行きは多度津を通過しているのである。  

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14時50分、多度津1番のりばに到着。ここでエル特急〈南風16号〉岡山行きの待ち合わせをするため、11分停車。さらに快速〈サンポート〉のヘッドマークを掲出する。どうやら多度津以西はヘッドマークを掲出しない模様である。その理由は、多度津以西は各駅に停まるからなのだろう。まさかヘッドマークの掲出も徹底しているとは思わなかったが、大盤振る舞いが難しいJR四国の懐具合を表しているようだ。ちなみに快速〈サンポート〉〈サンポート南風リレー号〉の快速運転区間は坂出(Y08)―高松(Y00)間のみ。同区間の快速〈マリンライナー〉はノンストップだが、快速〈サンポート〉〈サンポート南風リレー号〉は端岡に停車する(ダイヤによっては、停車駅が多い便もある)。

◆キハ185系代走特急  

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1番のりばの外側にある留置線では、キハ185系のエル特急〈いしづち〉が休息をとっている。この日、大半のエル特急〈いしづち〉は、高松―多度津間に縮小されている。

エル特急〈いしづち〉の多くは、エル特急〈しおかぜ〉との併結運行で、宇多津で分割併合している。しかし、多客期になると、山陽新幹線の乗り換え客が多く見込まれることから、エル特急〈しおかぜ〉は増結して対応している。このため、エル特急〈しおかぜ〉とペアを組めないエル特急〈いしづち〉は、高松―多度津間、電車または気動車による代走ダイヤを設定しているのだ。

代走車として用意されているキハ185系は、国鉄末期に投入した特急形気動車で、将来はJR四国のエースになるものと思われていた。しかし、JR四国は高速道路対抗策として、振子気動車2000系を投入。強馬力のディーゼルエンジンのあいまって、キハ185系の全盛期は予想以上に短かった。早々に第一線から退いたキハ185系の一部はJR九州に移籍し、ド派手な装いで活躍している。

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留置線の外側には、蒸気機関車8620形が静態保存されている。また、観音寺寄りに急行形気動車が留置されていた。すでに営業運転を終了しているので、解体待ちなのだろうか?

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14時57分、2番のりばにエル特急〈南風16号〉岡山行きが到着。1分後にあわただしく発車した。


◆元祖四国の玄関口で讃岐うどんに舌鼓を打つ  

快速〈サンポート南風リレー号〉高松行きは、15時01分に発車。讃岐塩屋(Y11)を発車すると、高架を上る。この高架は本州への大動脈ルートで、丸亀(Y10)を発車すると、キハ185系のエル特急〈いしづち19号〉多度津行きとすれ違い、宇多津(Y09)ではエル特急〈しおかぜ15号〉松山行きが停車していた。  

宇多津(Y09)を発車したとたん、急停車。どうやら乗車しようとした利用客は、半自動ドアであることをわからなかったらしい。実は別の駅でも足の不自由な方が快速〈サンポート南風リレー号〉高松行きに乗ろうとしたが、側扉が開くのを待っており、立客が半自動ドアボタンを押して、手を差しのべなければ、乗り損ねるところだった。  

宇多津(Y09)―坂出(Y08)間は走りに威勢があり、121系の性能がフルに発揮しているようだ。  

坂出(Y08)は快速〈マリンライナー42号〉岡山行きに乗り換える客が多く、若干乗車率は落ちるものの、ここから先は快速運転。坂出(Y08)発車は定刻より4分遅れていたため、回復運転に努めるが、少々揺れる。



次は高松 終点

4分の遅れは1分しか縮まらず、端岡(Y03)を発車すると、軽快なラストスパートで、15時36分、定刻より3分遅れて、終点高松8番のりばに到着した。  

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車止めの先にある「連絡船うどん」で、おろしぶっかけうどんを注文。どんぶりに讃岐うどんと大根おろしがあり、ショウガ、ネギ、つゆをぶっかけて食べるもので、うまい。讃岐うどんは太くてコシがあるので、チュルチュル進む。おやつで食うには程よい量と質だと思う。

★備考

①eyevio「2009 年の汽車旅4 THE MOVIE」



鉄道歴史パーク in SAIJO 

③参考資料として、鉄道ジャーナル社刊行、『日本国有鉄道大いなる旅路』を使用。

④参考資料として、三栄書房刊行、『鉄道のテクノロジーVol.7』を使用。

⑤この日のエル特急〈いしづち9・11・13・15・17・19・21・23・25・27・29・31・6・8・10・12・14・16・18・20・22・24・26・28 号〉は、併結するエル特急〈しおかぜ5・7・9・11・13・15・17・19・21・23・25・27・6・8・10・12・14・16・18・20・22・24・26・28 号〉の輸送力を増強するため、高松―多度津間の短縮単独運行になっています。

⑥JR四国は2011年3月12日(土曜日)のダイヤ改正で、「エル特急」はすべて「特急」に統合しています。

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まいんど

東京の京急電鉄ではアンパンマンの列車を走らせず、代わりに美少女戦士セーラームーンか、フレッシュプリキュア・ハートキャッチプリキュア・スイートプリキュア・スマイルプリキュア・ドキドキプリキュア・ハピネスチャージプリキュアのラッピング電車を走らせるそうです(大阪の京阪電鉄と山梨の富士急行との間で機関車のトーマスの東西対決はあるが、アンパンマンの東西対決は無い。1990年代に東京の京王帝都電鉄(現・京王電鉄)で8000系や今は無き6000系を使ってセーラームーンエクスプレスを走らせていたが、京急がアンパンマンのラッピング電車を走らせる予定はない)。
理由として、東日本大震災の影響でアンパンマンの人気が低迷していることと、京急は大部分の区間で海の近くを走っており、アンパンマンのアニメで「顔がぬれて力が」というシーンがかつての横須賀市内での京急1500形電車の脱線事故や東日本大震災で被災廃車になった仙石線・石巻線・気仙沼線の列車を連想させて不吉・不適切なことと、京急沿線にはアンパンマンがきらいでセーラームーンやプリキュアが好きな人が多いためです。
by まいんど (2013-12-14 00:25) 

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